无政府主义的由来
一、思想の起源
日本に於ける無政府主義の歴史は何年頃から始まるか。思想の系統を辿って、遡れば可なりに古いものとなるであらう。西洋にても『無政府』といふ文字を始めて理想社會の稱號として用ゐたものはProudhon(一八〇九----一八六五)であるが、其後の舞台に現はれて無政府主義の父と稱せられる。Bakounine(一八一四----一八七六)は無政府主義といふ文字を其運動に使用しなかった。そして却て『社會民主同盟』といふ樣な、今日の無政府主義者からは胡麻の蠅の 集團の如く考へられる團體名を 使用して居た。無政府共産主義といふ文字を始めて使用したのは、Bakounineの死後、瑞西に亡命中のElisee Reclus(一八三〇----一九〇五)であったらしい(Nettlan博士に依る)然も此エリゼ•ルクリユに多大の感化を與へ且つ無政府主義者中の無政府主義者と云はれる。William Godwinは十八世紀末の佛國大革命當時に其『政治的正義』を出してゐる。日本に於て、無政府主義又は無政府黨の名稱が尊敬と同情とを以て宣傳せられたのは、最初の平民社時代からのことであらう。宗敎的無政府主義者と稱するTolstoiや、無政府共産主義の巨人Kropotkinの肖像絵端書が、マルクスや、ラサアルの其と一組になって發行され、又、同様の親しみを以て取扱はれたに見ても當時の人々の心持が察しられやう。併し、それにしても、研究會なぞに於ては無政府主義と社會主義との差別が討議せられ、マルクス主義が矢張り其中心思想と見做されて居た樣に思ふ。平民新聞に掲げた『小學教師に吿ぐ』といふ私の拙い論文が吿發されて幸德が其被吿となった時、幸徳は其文章を無政府主義の思想だとて些か非難の意を漏らしたほどであった。『共産黨宣言』が最上の 經典とされてゐた時代であって、幸德もまだマルクスの心醉から脫しなかったのである。要するに誰の思想も、判然たる現代的分派の上に立脚してはゐなかった。併し、明治の思想史を調へて見ると、可なり古くから無政府的平等論 が日本の思想界に注入されてゐる。明治五六年頃旣に自由主義と共産主義との批評を試みてゐた加藤弘之が明治八年に箸はした『国体新論』は勿論無政府主義の思想とは異なるものであったにせよ、其言ふ所は純然たる天賦人権說に基き、今日此處に其章句を紹介することすら許されぬ程、極端な平等論を主張してゐる。西洋に於ける無政府主義思想の最初の文獻とも見做される。J•J•Roussauの『民約論』が服部俺といふ人に依って翻訳されたのは明治十年のことで、此書に副楣臣、中村正直といふ様な名士等の題字又は序文が附せられたのに見ても、それが可り重要性を帶びて日本に紹介されたことが想像される。尾崎行雄がスベンサアの 『Social Statistic』 を譯し、『権理提綱』と名づけて出版したのも明治十年のことで、此書は西洋の無政府主義者が好んで引用する所の書物である。此スベンサアの著は明治十四年に再び『社會平權論』として松島剛の翻訳するところとなり、ルソオの『Contract Social』も明治十五年に『民約譯解』といふ名稱で中江兆民氏 の翻譯が公にされた。以上に紹介した書籍当時世に出された自由主義、平等主義の多数の著作中の代表物であって、當時此種の書籍は雑然として日本の思想界に紹介されたのである。
二、東洋社會黨
こうした傾向の思想が横流してゐる社會に『東洋社會黨』といふのが九州島原に名のりを揚げた。其綱領を読むと其れが純然たる無政府主義的の思想を披瀝してゐるのは面白いといふよりは寧ろ不思議なほどである。
そして其れが餘りに空想的であるとか、非科學的であるとか、批評するものもあらうが、今日諸方に醜態を曝露して自ら恥づる處を知らない諸種の無産政黨に比すれば、どんなに原始的な純潔さと意気とがあったか知れない。
私は當時の靑年改革者達の意気と思想を伺ふ爲に同黨創立の光景と其の綱領とを玆に紹介する。(拙著『日本社會主義史』(平民新聞)より)『東洋社會黨は大和の人、樽井藤吉及び赤松泰助等の發企で肥前島原に起った。明治十五年五月二十五日、會議を同地江東寺に開く。来会者数百名、意氣頗る軒昂、其黨名を議するに當り、或は立憲急進黨となすべしと言ひ、或は宜しく突飛黨と稱すべしと唱え、激論鼎沸したと云ふ。けれども結局原案の黨名「東洋社會黨」に一決し、玆に其黨則を定めた。左の如し。
第一章 綱領
第一條 我黨は道徳を以て言行の規準とす
第二條 我黨平等を主義となす
第三條 我黨は社會公衆の最大福利を以て目的となす
第二章 手段
第四條 我黨は綱領の主旨を演繹して遊說演說等をすることあるべし
第五條 我黨は平易なる和文の雜誌、漢文の雜誌を發兌し、支那朝鲜へ我趣旨を拡充するを努むべし
第三章盟約
第六條 我黨は黨員相共に左の誓を爲すべし予は諸君と此社會黨を團結し,諸君と共に我黨旨を拡張するは、諸君予をして此社會黨に加盟せしめしにあらず、又予が諸君を誘導せしにあらす、諸君が道義心、予が道義心と相感合協和して成る所なり。諸君が我黨則を編制せしは、予が會て心に記錄したる所のものにして、即ち此黨則は予が精神の共に其編制に與りしものなり。諸君よ、此黨則は予が精神を發表公示するものなれば、予は誓って此黨則を守り、他人の毀誉に拘束せられざるべし。且つ予は務めて予が精神の如く、道義に富有なる精神の人と親和交結して、我此黨を大にせんとす。予は我黨旨を拡張するに親和を以て宗とすべし。敢て敵を求むる如き言行は爲すべからず。然れども我億兆兄弟中、若し過って我黨を阻害する時は、予は身を以て我黨に許さん。予身を我東洋社會黨に許すは、諸君に之を許すにあらす。即是道義に之を許すなり。予が脳裏に予を制する(原文省略)あらず、予が奉ずる所のは一の道義のみ。道義も亦予が脳裏を制する能はず。予が精神は即ち道義なればなり。予は之れを心に誓って以て諸君に示す。
第四章 組織
第七條 我黨は名づけて東洋社會黨と稱す
第八條 我黨は同心相聚るものなれば、會長又は創立員等の名稱を用ひず
第九條 我黨は全社會に及ぼすものなれば別に本部支部を設けず。唯便利により東洋社會黨何國何郡部等の名称を附することあるべし
第十條 我黨は時々各地に於て集合することあるべし但し開會の事は前會に於て豫約すべし
第十一條 會議入費は其出席出頭者の自辦するものとす 会议入费由出席者自行负担。
其名は『社會黨』であっても、其精神は純然たる無政府主義であった。『我黨は道徳を以て言行の規準とす』といひ、『平等を主義となす』といひ、又『社會公衆の最大福利を以て目的となす』といへる如きは、ゴッドヰンやプルウドンの思想を明白に宣言したものではないか。其盟約に於て、甲が乙を『誘導せしに非ず、諸君が道義心、予が道義心と相感合協和して成る所なり』と記し、『組織』の章に至って、『会長又は創立員等の名稱を用ひず』『全社會に及ぼすものなれば別に本部支部を設けず』と斷はってゐるのは、明かに自由聯合主義を表明したものである。
又、其『支那、朝鮮にそ趣旨を擴充するに努むべし』と加へたのはインタナショナルの思想を喑示したものではないか。或は又、『若し過って我黨を阻害する時は、予は身を以て我黨に許さん』と盟約するのは、恰もバクミンの『革命道義』を讀むの感がある。
更に進んで、『予が奉ずる所のは一の道義のみ。道義も亦予が脳裏を制する能はず。予が精神は即ち道義なればなり』と言ってゐるのは、Max Stirnerが其著『唯一者と其所有』中に『私を服從せしめる處の真理--權利も、自由も、人道も、--なぞはない』『君が眞理を信ずる間は、君は自身を信じないのである。君は一種の奴隸である。奉敎者である。唯だ君のみが眞理である。否寧ろ君は眞理以上である』と書いてゐるのと髣髴してゐる。樽井藤吉、赤松泰助等がスチルネルや、プルウドンや、ゴッドヰンを讀んだか、どうかは判らないが、當時旣に無政府主義の思想や運動の說話が、他の社會思想に混じて日本の思想界に滲入してゐたことを想像することが出來る。
此『東洋社會黨』に關して木村毅氏が日本社會主義史(社會問題講座)に記する處によれば、山路愛山氏や、吉野作造氏は筆井の意見と甚だ異った見解を述べて居るそうである。山路氏の文章として木村氏の引用する處は次の如くである。
『世には羊にして狼の衣を着るものあり、狼にして羊の衣を着るものあり、東洋社會黨など言えば其名は何となく恐ろしけれども、其實は平和なる一種の现想家、當時三十三四の壯年たりし樽井藤吉氏の發案にして、狼の衣を着たる羊にすぎざりしなり』(獨立評論明治四十一年五月號)
山路氏としては隨分沒分曉な無理解な漫言を弄したものである。社會黨を以て恐ろしきものとして、樽井氏は『平和なる一種の理想家』であって社會黨といふ樣な人物ではないと言へる如き、世間無識の人々の言ならば兎に角、山路愛山ともあらう者が餘りに不見識と言はねばならぬ。社會黨よりも、恐ろしきものと世間から思はれてゐる無政府黨の創立者達は、どんな人々であったらうか。
バクニン初め、クロポトキンでも、ルクリュでも、實に穩和な親切な理想家であったのだ。バクニンは『總破壊』の宣傳者であったが、徒らな暴言暴行は厳しく彼の戒しむる處であった。彼の『總破壞』とは宗敎的ドグマ、道徳的ドグマ、傳统的専制政治、階級的經濟組合等の徹底的破壊を意味し、主として思想上に關はるものであった。クロポトキンはジュラ同盟の思出を記す時にバクニンの事に言及して日く『ミシェル(バクーーンの小名)の名は度々彼等の話頭に登つた。然もそは不在首長の名、即ち其人の意見が法律となる所の首長の名としてではなくて、寧ろ同僚たる心持を以て、吾々が爱を以て語る所の個人的朋友の名として、彼等の話頭に登ったのであった。バク-ーンの感化が、其道徳的人格の感化に比して、其知識的權威の感化が非常に少かった事は、私の最も感に折たれた處である。或は無政府主義に關し、或はジュラ同盟の態度に關する談話に際し、私は曾て『バクニンがかう云った』…といふ様な、恰も之を以て問題を解決するやうな口吻を手にしたことがない云々』これに由て見ても、バクニンが如何に優しい人物であつたかが判るであらう。
更にクロポトキンやルクリュの人物に至っては、社會學の泰斗ド•グレフ博士(博士は兩人の親しい友人であつた)の言を聞かう。博士は曰く『此二人(クロとルクリュの二人)に依って、即ち最もも平和的な、最も人道的な、些かの暴力行為をもなし得ない様な此二人に依て、無政府主義の敎理は開發せしめられたのである。實際あの二人け、私の一生涯に會て出會はない極端に優しすぎる人達だったと言ひ得やう。共著を讀み、其言葉を聽いて居ると、自ら自分が善人になる様に感じられる。是れは實に、彼等の自然に對する深甚な愛、殊に人間の天性、人間の威嚴に對する愛、全人(最も墮落した人に對してさへ)に對する深愛に基くものである云々』(de Greef—-Eloges d’Elisee Reclus --p•33)こうした優しい人類愛に充ちた人々だからこそ、無政府主義の理想に生きることが出來たのではないか。
樽井氏等とルクリュ等とを比較する譯ではないが、平和な理想家たる樽井藤吉が、無政府的社會思想を懷抱したことは、眞とに當然であって少しも不可思議なことではない筈だ。吉野作造氏は、又、『今日謂ふ所の社會主義の臭味は少しもないのみならず、政治的色彩も全然見られない。名稱の示す如く志は東洋全體にのびて居る樣であるが、寧ろ純然たる思想團體と見るべきものではなからうか』『更に適切に言へば國家社會主義といった方が當る』(新旧時代)と言つてゐるそうである。
横井は後に國家社會主義者になつたかも知れぬが東洋社會黨の綱領に表はれた思想は、所謂国家社會主義と相隔たること甚だ遠く、前に述べた様に純然たる無政府主義である。吉野君の記する所によれば、『樽井氏は大和國の人、材木屋の若旦那に生れ、別に正式の教育を受けぬが、不思議に獨創の見に富んだ天才肌の人で、能く緻密に物を考える人だった。……何も西洋の社會黨に做ったのではない。之より先き彼は上海に遊び、一宣敎師と會して例の如く其抱負を語った。すると其宣敎師はそれは西洋で社会党といふものゝ主張だと言ったので、さてこそ自分の運動に此名を冠するに至ったのである』といふ。それにしても『社會黨』といふ飜譯名をいづれより學んだか。當時旣に日木の思想界に流行してゐたルソオやスペンサアの無政府的思想の感化を受けては居なかったか。明治十五年には露國虚無黨に關する翻譯書が三種も出版されて居た、といふが、其等の感化を不知不識の間に受けはしなかったか。どんなに創造的な天才といへども大ていは先行の天才から感化又はヒントを受けて始めて自分の思想が開發されるのである。右『東洋社會黨』の綱領に見ても、それが西洋の社會黨に做ったものでないことは明白である。そしてそれが却て最も理想的な無政府主義的思想に徹底してゐる處に深い興味があるのである。私は此『東洋社會黨の綱領組識』を以て日本に於ける最も重要なる無政府主義的一文獻として明治四十年の日刊平民新聞に掲げた『日本社會主義史』中に引用したが、今日は益々之を確認するものである。當時歐米諸国に於ては、未だ今日の社會民主主義の運動が興らないで、寧ろ露國に於ける所謂虛無黨の運動や、西欧に於けるバク-ーン派インタナショナルの運動が猛烈を極めてゐた時代であった。佛國リオンに大疑獄が起って、クロポトキン等多數のアナキストが重刑に處せられたのも、米國シカゴにストライキが起って、五名のアナキストが死刑に處せられたのも、露西亞のアレキサンドルニ世が爆弹を以て殺害されたのも皆當時の出来事で歐米諸國に喧傳された事件であった。こうした驚天動地的事件が、當時、貪る様に歐米の事情と知識とを求め、自由民權の運動に狂熱して居た日本の志士達靑年達に傳へられて、其血を沸かしたであらうことは今から容易に想像することが出來やう。
三、民友社
東洋社會党は創立と同時に禁止されたので日本の思想界には餘り大した影響を與へてゐないと言って差支はなからう。唯こうした思想が既に日本の社會に芽ぐんでゐたといふ事を知る為に重要な歴史的事實となるのである。然るに日本の社會思想界に多大なる感化を與へたところの一事業が起った。それは雜誌『國民の友』を發刊せる民友社の事業、是である。民友社は明治二十年二月徳富蘇峰の創立したもので、『國民の友』は第一號よりヘンリイ•ジョオジの論文を訳載し、盛んに「社會主義」といふ文字と思想とを流布した。或は露國虚無黨を論ずる處の寄書を連載し、或は歐洲社會黨の五月一日運動の實況を報じ、或は國際社會黨大会に關する通信を提げるなぞ、恰も社会党の機關誌を見るの感があった。殊に中江兆民門下の高足にして當時佛國巴里に在った酒井雄三郎が明治二十三年七月の同誌に寄贈した『五月一日の社会党』と題する通信は、蓋し歐州に於ける最初のメエデエ運動であったであろう。佛國無政府主義の女神Louise Michelle等の活動が行はれたのも此時であった。民友社は單に雜誌に依つて社會主義思想を宣傳したばかりで無く、單行本に依つても其思想を傳播したEdward Carpenterの『Civilisation: its cause and cure 』を『文明の弊及び救治策』と譯して出版し、又、『現時之社會主義』といふ小冊子を公刊せし如き是れである。カアペンタアの思想はルソオ流の自然思想に更に深遠な哲學的透徹を持った无政府的にして共產的な社會思想である。此書が日本に譯されたのは、英國に於て原書が出版せられて間もないことで、其間一ケ年の隔りも無かったと思ふ。如何に敏速に西洋の思想が日本に傳へられしか、今日より見るも驚かれる程である。明治二十三年十二月に初めて國會が開かれた。此時早くも議事堂に爆弾を持入れたる者あり、なぞと喧傳せられたが、それは丁度其當時、佛國巴里に於てブイヤンといふ無政府主義靑年が議會に爆彈を投じて多くの死傷者を出した椿事が言ひ傳へられ、日本にても模做者が出づべしとの杞憂から、若しくは其様な噂があって、騷いだものであらう。當時尙ほ十四才の少年であった筆者は、自由黨志士等の出入する家に在り、其様な話を聞いて子供ながら痛快がったものである
四、平民社時代
それより社會問題、勞働問題は、漸く先覺者達の間に論究される様になった。けれども其思想の傾向は寧ろ漸く平穩着實になり、往時の様な純思想的な運動は起らなくなった。明治三十年の『太陽』誌上に、昔の東洋社會黨の創立者であった樽井藤吉が『國有銀行論』なぞといふ論文を連載したのでも分るであらう。日清戦爭後、經濟的急變の結果として社會問題は矢釜しくなり、勞働運動は勃興したが、併しそれは極めて漸進的改良主義に過ぎなかった。かくして明治三十四年の『社會民主黨』の創立となり、明治三十六年の週刊平民新聞の發刊となった。平民新聞の發行所たる平民社の同人は唯だ社會主義といふ廣い思想の下に集まり、今日から見れば頗る混沌たるものであった。そして日露戰爭に對する非戰論をまつこうに、かざして起ったので、トルストイヤン其他の基督敎徒の同情を得たことも多大であった。トルストイの非戦論が、平民新聞に掲載されたなぞ自ら當時の情態が察せられやう。又マルクスやエンゲルスが偉大な人物として紹介されると同時に、それを大きらいなクロポトキンや、ウィリアムモリスが、多大の仰慕を以て紹介されるといふ工合であった。Morrisの無政府的理想鄕『Newsfromnowhere』や、Bellamyの國家社會主義的なる『LookingBackward』が、堺枯川君一人に依って抄譯されるといふ有樣であった。
幸德の筆に依ってラサール傳が書かれたことも今日から見れば、ちょっと不思議なほどであらう。平民社はこうした有様であったが、社友中には久津見版村の如き個人的無政府主義者が居た。久津見氏は屡々平民社出入の青年達と個人的無政府主義に就て議論を戰はした人で其思想は恐らくスチルネルやニイチエの系統を承けたものであらう。彼は或る時、一書を平民新聞に寄せ、其中に次の如く言ってゐる。『前略••••僕の理想は、恐らく諸君の理想の世界よりしてユトビャ視せらるゝの夫れよりも更に更にユトビヤなるなからんや。••••僕は總ての個人をして總て悉く完全の自由を得せしめたる狀態に到らんことを欲す』『僕實に斯理想を懐いて今を見る。今は獣類と僕の理想の個人との中間に彷徨せる半獣半人の世なり、矛盾の世なり、戰鬪の世なり。僕は此故に僕の完全の自由を半獸半人の上に求めざるべからず。即ち有り能ふの力を振って半獸半人の間に戰ひ、僕の完全の自由を捕獲せんと欲す。出來得べくんぱ英雄たらん。能ふべくんば富豪たらん。然らずんば、一管の筆に世を嘲りて超然冷然たる生活に甘んぜん。夫れにも戰ひ敗れなぱ、附卷の餓死、亦何ぞ怨みん。
而して敢て社会の公平と稱する分配に滿足して我完全の自由の發展に遠慮することを欲せざるなり。』ニイチェの思想は之よりも以前に戶張竹風等に依て紹介されたが、蕨村ほど徹底的ではなかった。岩野泡嗚が半獸主義を唱へる樣になったのは尙ほ後日の事である。蕨村の著『無政府主義』は當時の作物であって、日本無政府主義思想史の文獻として高い一地位を占むべきである。是より數年前、煙山專太郎氏の『近世無政府主義』といふ立派な書籍が出版されてゐたが、煙山氏は無政府主義者となった譯ではなかったであろう。其名著も今日は絕版になってゐる樣である。平民社が解散して、私は木下尙江、安部磯雄兩氏の下に『新紀元社を經營してゐたが、當時堺利彥君等の組織した『日本社会党』に對して可なり長い批評を雜誌『新紀元』に揭載した。無政府主義といふ程のハッキリした見地に基いたもので無く、寧ろ私の宗敎的心境から見た政黨觀であったが、私としては今日も尙ほ之と同一意見で、現に今日の諸種無産政黨に對して同一筆法を用ゐてゐる。標題は『堺兄に與へて政黨を論ず』といふのである。當時はまだ普通選挙制行はれず、議會運動があった譯ではないが、政黨組織の心理状態は今日と余り相違しては居なかった様に思はれる。左に拙文の一小部分を摘錄する。
『堺兄足下、予は兄の勧告を受けし時、兄に談りし如く、政黨を以て、社會改革の手段として、左程重要なるものと考ふること能はざる者なり、殊に革命主義の運動に對しては、往々にして害こそあれ、甚だ有用のものなりとする能はざる也。』『想ふに、政黨なるものは、新たに改革の元氣を人民の中に奮興する所以の道に非ずして寧ろ旣に奮起せる人心を寬和統卒るの一手段に過ぎず、蓋し革新の元氣は、党の評議員等の決議に依りて生ずるものに非ず、又黨員の多きが故に起るも眞の元氣に非ず、然り、革新の元氣を鼓吹するは唯人民の衷心に投ずる新一點火にあり、而して之を投ずるは傳道にあり、言論を以て、行為を以て、するの傳道にあり、...』今日で言へば『投票の多數なるが故に起る處の元氣も眞革命の革命の元氣ではない』と言ふべき處である。徒らに投票の多きを希ふ時、政黨は墜落するのである。『堺兄足下、予は進んで、大兄等が常に唱導せらる「革命」と政党との關係に就て一議論を試むべし、予は今日の所謂政党を以て、「革命」を實行し得るとは到底予想し能ほざるなり、蓋し「革命」は予言にあらず、示威運動にあらず、直下の実行にあり、体現にあり、政治上においてけ政治組織の転覆にあり.....
『大兄も定めし同感ならんが、革命はチヨッと小氣味よき事業なり、サッバリとして男らしき活動なり、男子苟も革命を憧憬す、政党運動の如き世俗の小細工に腐心するは到底堪え難き所なるべし、政党は固より多少革命の助勢たらざるに非ず、然れども、政党の運動は、形式的に多数決を以て定まるを常とす、活泼々地、回天の壯圖を霹雳一聲の間に成就する如きは到底及びも着かぬ所なり。
『之を少しく政党の發達に稽ふるも、政黨は却って革命を鎮圧し、革命は却って政球を紛亂す、予が脳裡に存する幽かなる記憶によれば、近世政施の起源は英國にして、エリザべス女皇の時代に存するが如し、而して其時は即ち宗教革命の漸く寛和せられたるの時にして、政党は益々紛爭を激發するが如く見えて實は却って大いに之を寛和するの用をなせり、更に下って、佛蘭西革命を見るに、政議は其革命の為に寧ろ攪亂せられて、個人の活動却って之に超駕したりき。』
『中略』
『堺兄足下、予をして更に一步を進めて、大兄等の政黨運動に容嘴するの自由を得せしめよ、大兄等は其政黨の綱領中に、『國法の範圍內』に於て活動すべきことを宣明せり、思ふに是れ、大兄等の政黨を以て、世人と政府とが之を革命黨なりと認むるを恐れたるが故なるべし、政黨の主義として固より一點の非難すべきものあるを認めざる也、然れども、若し斯の如く、國法の範圍内に於て、一步づつ進み行くものとせぱ、吾人は大兄等の日本社會黨は、山路氏等の國家社會党と分離して且つ反目して存するの理由を見ず、素より最極の改革案に於て相違ありとするも、少くとも之に達する迄の道中に於ては、相提携するも不都合なかるべし。云々』(明治卅九年)
宗敎的心情を以て社會改造を希願してゐた私は世の政治運動若しくは政黨運動に興味を持つことが出來なかったのである。又、今日無政府主義者間に議論される階級斗爭說に就いても、私は『新纪元』誌上に於て、マルクス的階級斗爭論に反對せる別箇の階級闘爭論を主張してゐる
五、 幸德秋水の思想の變化
第一平民社解散の後間も無く、明治三十八年十一月幸徳秋水は米國に赴いた。そしてサンフランシスコを中心として日本人間に社會主義の宣傳に努めた。オークランドに於て『社會革命党』が出來たのは其結果であった。然るに幸徳は其翌年の夏歸國するに及んで、以前の如き混沌たる社會思想を脱却して頗る無政府主義的に變化してゐた。明治四十年二月五日の日刊『平民新聞』に幸德自ら『余が思想の變化』と題する長文を揭げて、其中に次の如く言って居る。
『余は正直に告白する、余が社會主義運動の手段方針に關する意見は、一昨年の入獄當時より少しく變じ、更に昨年の旅行に於て大に變じ、今や數年以前を顧みれば、我ながら殆ど別人の感がある。……余は正直に吿白する。「彼の普通選擧や議會政策では眞個の社会的革命を成遂げることは到低出來ぬ。社會主義の目的を達するには一に團結せる勞働者の直接行動に依るの外はない。余が現時の思想は實に如此くである。……略
『現時の議員は如此く卑しくも社會黨の議員となれば、皆な眞面目だから民意に背く恐れはないとの說がある。成程今日、日本の社會主義者は皆眞面目である。……而も一朝社會主義が勢ひを得て選舉場裡に多数を得るの日ありとせよ、其時、社會主義を標榜して選舉を爭ふ多くの候補者は、必ず今日の眞面目なる人々ではなくて、實に自身の名誉の爲めに、権勢の為に、利益の為に、若くは單に一議席を得んが爲に社會党に加盟せるものに違いはない。而して其当選者の多くは矢張最も金ある者、鉄面なる者、人氣取に巧みなる者に違いないのである。…、略
『若し百步を讓って,選擧てふものが果して公平に行はれ、適当なる議員は選擧され而して其議員は常に眷々として民意を代表することが確かであると仮定するも、之に依って我等に果して社會主義を實行することが出來よう歟、マルクスの國たり、ラサールの國たる獨逸が普通選擧の下に於て、初めて選出した同志は僅かに二人であった,爾後八十一人まで漕つけるのに、實に三十余年の日月を費したのである、而して此三十余年の難戦苦闘の結果が、僅かに一片の解散詔勅の為に吹飛ばされて何等の抵抗も出來ぬといふに至っては,投票の多數てふ者は如何に果敢ないものではないか。
『憲法は中止されるの時がある。普通選舉權は侵奪されるの時がある。議会は解散されるの時がある、議会に於ける社會の勢力熾んで抑え難いと見れば、暴横なる權力階級は必ず之を斷行するのだ。現に獨逸では屡々斷行されたのだ。事此に至れば最早や勞働者の直接行動に待つの外はないのだ。然るに平生勞働階級自身の団結訓練に力を致さないで、直ちに直接行動を執ることが出來るであらう歟…•••略『今や欧州社会党の多數は、議會の勢力の功果少なきに厭きて來た。大陸诸國の社会党議会と勞働階級とは、常に相和せざる傾きを生じて來た。……勞働階級の欲する所は、政權の略取ではなくて『パンの略取』である。法律でなくて、衣食である。故に議会に對して殆ど用はなかったのである。……省略
『同志诸君、余は以上の理由に於て、我日本の社会主義運動は、今後議会政策を執ることを止めて、一に團結せる勞働者の直接行動を以て手段方針となさんこと望むのである。云々。』
かく無政府主義的に變化した思想を懷いて彼は日本社會党大會に臨み、議会政策論者と戰ったが、大會の決議は兩者を認める折衷說に落着いた。併し其結果、日本社会党は直ちに禁止されて了った。そして日刊平民新聞は廢刊して了った。それより社會主義者間に種々なる紛爭が行はれ、互に悪罵誹謗が交はされ、分裂に重ぬるに分裂を以てした樣に思ふ。幸徳は病を養ふと稱して鄕里土佐に歸り、靜かにタロポトキンの『バンの略取』の飜譯に專心した。
是より先き、私は日刊平民都の筆禍の為に一年餘りの刑期にて入獄した。其在獄中の著作の一つである『虚無の霊光』は、出獄直ちに出版に取り掛ったが、まだ製本屋の工場にある間に全部押收、發資禁止になって了った。私が巣鴨监獄に居た間に大杉榮等は無政府主義的に傾向して來た樣に思ふ。それは、明治四十一年六月、私が發起人となって山口義三君の出獄歡迎會を神田錦輝館に開いた時、大杉榮、荒畑寒村等は『無政府共産』の文字を表はした赤旗を持って來て會場に飾ったのでも判る。所謂『赤旗事件』と稱せられるのは、此赤色旗をかざして街頭にねり出さうとして警官隊と衝突し、玆に大爭闘亂を演じた事件である。此赤旗事件にて堺大杉、山川、荒畑其他のものが入獄し、私も別の新聞紙法違反事件で入獄し、暫時、千葉監獄に同棲した。彼の幸徳等の大逆事件が起ったのは此間の事である。私は出獄するや、間も無く家宅捜索を受け、同時に警視厅に引致されて徹宵取調を受けたが、別状もなくて放還された。此大逆事件に連坐した人々は左の二十四人で、その內、明治四十四年一月に死刑を執行せられたもの十二人、死刑宣吿の上、無期刑に減刑せられたもの十二人となった。
死刑を執行されたもの,幸徳傳次郎、奥宮健之、森近運平、内山愚堂、大石誠之助、松尾卯一太、古川力作、宮下太吉、成石平四郎、新村忠雄、新見一郎、菅野須賀。
減刑の特典を受けたもの、高木顕明、飛松與次郎、坂本清馬、崎久保誓一、岡木潁一郎、武田九平、三浦安太郎、岡村寅松、小松丑松、佐々木道元、峰尾節堂、成石勘四郎。
幸德等の大逆事件があってから、吾々社会運動者に對する政府の壓迫は實に嚴酷を極めて來た。無理解な世間一般人も亦吾々を蛇蝎の如くに感じた。私は此事件があって二年の後、日本を脱走して、永い漂浪の生活に赴いた。